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航空自衛隊医官よもやま話(5) | IMCニュース

航空自衛隊医官よもやま話(5)

 前回小生が平成元年8月1日青森県三沢基地の自衛隊三沢病院へ転属で終わりました。正確に言いますと自衛隊三沢病院はその時まだ開院しておらず小生の転属先は『自衛隊三沢病院準備室』でした。その所属は北部方面航空隊第3航空団業務隊三沢病院準備室と長ったらしいもので、転任の申告は三沢基地司令(第3航空団司令)、つまり本ちゃんの自衛官に(医官はちょっと?)、にしなければならずちょっとプレシャーでした。まずは基地内の準備室、所謂プレハブの事務所にそこで三沢基地について説明を受け、院長予定のM一佐(以前沖縄勤務のときの上司、大学院留学中は空幕次席衛生官で小生の入隊以来ずっとお世話になってきたM先生)に挨拶、その他のスタッフ(多くは以前より面識のある)にも挨拶。昼食後事務官が小生の使う予定の官舎へ。場所は市役所に近く市の中心で単身赴任には便利な所とのことでした。しかし我侭な?小生はどうもその古さと汚さ?に御免して病院近くの(基地ですのでフェンスで区切られています)まだ新しめな官舎に変更して貰いました。部屋は5階建ての5階3LDK小生一人には広いがお風呂も綺麗。トイレも。とさっき見てきた『便利な官舎』に比べ十分満足できるものでした。実は赴任の際、妻と下の娘も一緒に鎌倉から車で来ておりました。荷物が着く何日間はホテルへ宿泊し、荷物が到着し新しい棲家へ移動。家財道具は本や衣類などの身の回りの品以外は現地調達、家内たちと三沢市内を物色。電気製品、コタツ、ベッド、カーテンなど、初めての単身で料理、洗濯もしなければと台所用品も家内が揃えてくれました。8月の赴任で北国と言っても夏は夏、これから来る冬の三沢の生活が、不安と期待の新生活のスタートでした。病院は平成元年9月1日開院しました。航空自衛隊の病院としては第3番目の病院です。新しい病院を開院させることは楽しく遣り甲斐のある仕事でした。医官は院長以下7名(航空自衛隊の病院では大奮発)も集められ皆期待とやる気に満ちていました。看護婦他スタッフも若くやる気のある者達集めらました。その中看護婦たちの青森弁(多くは南部弁)は新鮮でした。可愛い顔してこの言葉、ギャップが小生を楽しませてくれました。開院から、1ヶ月、2ヶ月経ちますと外は紅葉が始まり病院も順調に軌道に乗って行きました。ここは陸奥です。紅葉の奥入瀬、十和田湖、八甲田山が小生を招きます。まずはドライブ開始です。東北の紅葉は初めてですが印象は『黄色が多く赤が少ない』です。他八幡平の紅葉も見物でした。もう一つ三沢周辺は温泉の宝庫です。古牧温泉は有名ですが三沢市内の所謂銭湯はすべて温泉です。湯巡りも満喫できました。これも三沢基地勤務のご褒美です。三沢基地は米軍との共同使用基地であり自衛隊が米軍基地に間借りしている状態です。警備は米軍、基地の80%以上は米軍施設が占め基地内の交通取り締まりも米軍のMPが当たります。特にスピード違反、一時停止は厳しく自衛官も米軍さんもよく捕まっていました。しかし小生のアメリカ好きには天国でした。マックはありませんが『Burger King』 があり、小さなFood shopでは大好きなチョコレートケーキが買え、ゴルフ場では安くプレイできるし、本場のHot dogも食べれるし。ただ酒の飲めない単身赴任の日曜日は退屈でした。平日は部下達が麻雀、カラオケなど相手してくれますが休日は家族サービスでだめ、慣れない洗濯、料理とレンタルビデオが友達でした。一方冬はそれこそスキーシーズン、安比高原など小一時間で行け、休みに皆で行きました。下の娘はその頃小学4年生で冬休み春休みなど一人で三沢に来ていました。スキーは勿論、親子で温泉(銭湯)巡りをしたり。小さいながらも料理好きで仕事から帰ると夕飯を作ってくれました。(家内よりも美味しい?) 他三沢でのでき事を思い起こすと米軍病院のDR達との交流、米軍病院の連中とのソフトボールの試合、積雪道路で初めて一人で車の練習、雪の町では演歌が一番(小生それまで演歌は大の苦手)、雪の道の静かで不気味な世界、下から吹き上がる吹雪etc。しかし一番の想い出は平成2年の年末から湾岸戦争が始まった頃です。航空自衛隊が湾岸戦争の後方支援として空輸部隊をヨルダンへ派遣し、衛生支援として医官も派遣される事になりました。勿論小生も含め誰が指名されるか判りませんでしたが自衛官である以上命令が下れば行かざるを得ない覚悟はしていました。戦後新憲法の下初めて自衛隊を海外に派遣する事が決まり法整備も行かされる自衛官の保障制度も無く、その上自衛隊への風当たりは現在とは違い冷たいものでした。その後カンボジアから始まり海外派遣も常態化され法整備も成されて来ていますが当時は不安の中での覚悟でした。結果としてヨルダン派遣は見送られましたが、現場では深刻でした。実は小生は年明けに3佐から2佐に昇進しました。その為だと思うのですが派遣部隊の編成上医官の指揮官は3佐職のため小生の派遣はなくなりました。正直家内は安堵していました。しかし小生が行かなくても誰かが指名される訳ですから喜んでは要られません。案の定三沢病院の割り当て?として外科のY1尉に指名が来ました。彼も断れば断れるのですが、断れば代わりに誰かが指名され断れるはずも無く承諾しました。そこで病院でのDutyをすべてキャンセルさせ家族と一緒にいる時間を多くあげることにしました。我々の仲間が危険な任務に、それも戦後初めて戦地(近隣ですが)に赴くのですから本人、家族の気持ちはどんなものだったのでしょうか。この初めての海外派遣計画の緊張感は何ヶ月も続きました。その中でさすがと思ったことは派遣が決まり米軍病院へヨルダン情報があるか相談しに行きました。国際的軍隊である米軍はすぐに現地の情勢、気候、衛生情報をレポートにして提供してくれました。自衛隊の中、否日本の中でもこれらの情報は即座に提供して貰えないでしょう。現在でも軍隊として、軍事衛生の立場からして情報量は不十分だと思います、日本は。そんなこんな三沢生活も家庭の事情というやつで自衛隊生活自体も一緒に平成3年9月2日で終わりになりました。そんなに長い自衛官生活ではありませんでしたが小生にとって、家族にとっても楽しい期間でした。5回に分けて『航空自衛隊医官よもやま話』を書きましたが、自分を振り返り自衛隊を故郷のように思える今日この頃です。ある意味一般のお医者さんには味わえない経験ができた事を当時の関係者の皆様に感謝しています。先輩後輩の先生方、他の職種の方々との付き合いも継続し今後も我が『未練の先自衛隊』に関わっていきたいと思います。これで小生の自衛隊生活終了です。