患者さまに向き合い、お話をじっくりお聞きすることを大切にします。

在宅医療は医療の柱と考え、通院の難しい患者さまを診療しています。

電話番号は0467-22-4681

バイオグラフィー 父 井口善二郎(2010年1月) | IMCニュース

バイオグラフィー 父 井口善二郎(2010年1月)

 平成21年3月10日午後、父井口善二郎が92歳で生涯を終えました。大正6年8月2日、東京神田で生まれ芝で育った江戸っ子でした。幼稚園の時関東大震災に会い、本人はあまり記憶にないようでしたが何処かに避難したようなことを言っていました。小学校は鞆絵小学校を卒業、芝中学校に進みました。中学校時代は陸上部で活躍?したそうです。またその頃ボーイスカウトにも入っていて何年かは分かりませんが、ヒットラーユーゲントが来日した際一緒に走って?富士登山をしたと言っておりました。元々海軍志望で中学在学中から兵学校を受験、何故かは分かりませんが受からず卒業して浪人しても受け続けたようです。その浪人中に昭和11年2月の二二六事件に遭遇、神田の物理学校(現東京理科大学)の帰り威厳令が布かれ家までどうにか歩いて帰ったそうです。それから最終的に兵学校を諦め、ただ海軍士官の道は諦められずに医大へ行って士官になろうと東京慈恵医大を受験し入学しました。勿論在学中は海軍依託生として手当てを貰っていたそうです。医大卒業と同時に本来の目的である海軍に入隊、依託生だから当然でもありますが嬉嬉として?戸塚の軍医学校に入校しました。所謂戸塚一期の海軍軍医です。軍医学校卒業し呉鎮守府の松山海軍工廠の所属になり赴任。昭和20年8月6日広島に原爆が投下された後の救護活動で開大地まで出動して被災者の火傷の手当てをしたと話してくれました。また長男である小生が生まれるとき“新型爆弾の被爆”の影響で何か問題があるのではと心配したそうです。実際親には我が侭で迷惑な子ができてしまいましたが。また終戦時ポツダム大尉に昇進し海軍に残り在留邦人の引き上げ事業に従事しました。そこで元駆逐艦“響”の軍医長として南はラバウルから朝鮮半島と砲塔のない軍艦で引き上げ事業を行いそのまま国立久里浜病院(元久里浜海軍病院)に勤務、昭和23年頃より鎌倉ヒロ病院に通いそこで母である實子と出会い昭和25年結婚。約10年強ヒロ病院で副院長として勤務、その間に小生はじめ弟、妹が誕生。昭和35年12月現在地に『井口医院』を開設しました。同時に鎌倉市医師会に入会、その後理事などを昭和40年代前半に就任し、現在の医師会医療センターの設立に当時の高山会長、足立先生らと奮闘したそうです。理事を辞めてからと思いますがその後は神奈川県内科学会、慈恵医大同窓会などの役員、鎌倉市内科医会会長、慈恵医大同窓会鎌倉支部長などを小生が医者になり鎌倉に帰ってくる頃まで頑張っていました。平成7年7月に小生が井口医院へ参加『井口内科医院』としてリニュウーアルオープンし亡くなるまで院長として頑張ってもらいました。その間母實子を平成13年に亡くし、徐々に仕事も続けるのが難しくなってきましたが院長として当院の行事では挨拶を立派にこなしてくれました。
 父の人生を今こうして振り返ってみますと、戦争で自分の想いとは違う道を歩んだのかもしれませんが徐々に“町のお医者さん”人生を築いていき全うできたように思います。たくさんの先輩、同僚、後輩の先生方に支えられて幸せなお医者さん人生だったと思います。
 父は海軍大好き、医師会大好き、慈恵医大大好き、絵が大好き(観るのも描くのも)、小唄大好き、踊り大好き(日本舞踊も、社交ダンスも)、それと多分女の人大好きな人生を送った人でした。息子として父に喜んで貰ったことが二つあります。一つは父の大好きな軍隊である自衛隊に勤務した事です。本人は海軍軍医を職業にしたかったんだと思いますが時期が悪く戦争に負け海軍が無くなってしまい自分の軍人生活が中途半端で物足りなかったので小生を学生の頃から自衛隊に入れたがっていました。小生が3佐(少佐)になった時父に『ポツダム大尉、上官に敬礼は?』と言うと悔しそうに、嬉しそうに海軍式の敬礼をしてくれました。また海軍軍医学校の同期会を亡くなるまで欠かさず出席していました。小生が自衛隊に入った頃わざわざ小生に軍服を着せて会場に送らせて誇らしげでした。
 もう一つは大好きな医師会で小生が理事となったことです。人から見たら変な親子と思うかもしれませんが、父にとっては医師会活動が大切で重要だと思っていたんだと思います。父の時代の医師会と今では大分様変わりしているかもしれませんが喜んでくれました。
長い人生苦労をかけたり、喜んでもらえたりたくさんの思い出があります。小生の知らない父の人生もあったと思います。最後に父への感謝と父や小生を支えてくれたすべての人たちにお礼申し上げます。
 “お父さん 有難う。そしてもう一度お母さんと一緒に楽しく暮らしてください。” 
合掌!
                    平成21年12月