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航空自衛隊医官よもやま話(2) | IMCニュース

航空自衛隊医官よもやま話(2)

 前回は我が自衛隊入隊までのお話でした。今回は入隊後の医官としての体験、医者だけでなく自衛官としての経験を振り返って見ます。まず小生は初任実務研修医として自衛隊中央病院の所属となり、2年間中央病院と国家公務員共済組合連合会三宿病院で臨床研修を受けることとなりました。ここで1つ説明を入れさせてください。本来自衛隊中央病院の対象となる患者さまは自衛官及び防衛庁職員とその家族に限定された職域病院であります。よって我々医官は原則として健康であるべき自衛官等を対象に診療するため傷病も少なく、疾患も多岐には渡らず臨床研修が不十分だろうとのことで中央病院設立時より、渡り廊下で結び途中鍵の掛かる頑丈な(?)扉で区切った国家公務員共済組合連合会三宿病院を併設しました。即ち三宿病院は院長を除き医師(三宿病院ではそう呼ばれます)は全て自衛隊医官でありました。そうして小生は両病院の内科で研修を始めました。大学病院の研修とは多少違い親切に指導してもらえる環境ではありませんでしたが、まず指導医の先生につき病棟の患者さまの診療を研修します。指導医がたまたま消化器科の先生でしたので小生はその先生にイソギンチャクの如く一緒に行動するため研修医の医局にいるより内視鏡室にいつもたむろしていました。その部屋の室長は当時3等陸佐のS先生でした。ちなみにS先生は現在中央病院長で小生の医者人生において最初に大きな影響を与えていただいた方です。ちなみに小生は2等空尉でした。この内視鏡室での生活(研修医の生活は病院にできる限りへばりついて諸先輩の先生方の教え?を頂くことでした。)は小生の医者としての出発点であり、基礎ともなっております。中病での研修は6ヶ月間指導医がつきますがその後はもう独り立ちさせられ患者さまは諸先輩の先生方と同じで順番で受け持たされました。更に諸先輩に恵まれ白血病、劇症肝炎など稀でやりがいのある患者さまを小生に受け持たせて貰えました。また内視鏡室ではその当時胃カメラでしたが研修医の小生たちもS先生の指導で、研修開始1,2ヶ月で触らせて貰いました。最初先生が挿入観察した後自分で観察し写真を撮ることから始まりました。正直最初は自分が何処を見ているのかオリエンテーションは全く分からず無我夢中で写真を撮りカメラを引き抜いていました。(された患者さま御免なさい。でもそれで優秀な内視鏡医?が育ったのです)その後が大変です。撮った写真を読影会で評価されます。勿論中々OKなど出ません。やはり物事数をこなせばそれなりに結果が出ます。半年ぐらいで写真の撮り方はOKとなりました。診断能力、判断はまだ幼稚園児ぐらいでしたが。研修も半年過ぎると要領も備わり先輩たちにも可愛がられ?順調に過ぎていきました。何しろ小生は子持ち(二人)の研修医で内視鏡の親分S先生のお子さんより父親先輩でした。そのため扱いにくかったかもしれませんが、小生が巨人軍の長島崇拝者であったのをアンチ巨人のS先生はよくからかっていただきました。中病での研修中、実は自分が自衛官であったことを意識することはあまり無く一般の病院の医師と同じように研修していました。年に3,4回制服を着る機会があり、その時お互いの似合わない制服姿を諸先輩の先生や看護婦さん(当時は看護婦でOK。また中病の看護婦さんはすべて陸上自衛官で中には小生より階級の上の人もいました)たちと一緒に笑いのネタにしていました。研修初年度に自衛隊観閲式(陸自朝霞駐屯地で年一回総理大臣の観閲を受ける全自衛隊の重要な儀式)の衛生支援(診療所開設し隊員の健康管理をする)に出動を命ぜられ制服に白衣を着ました。大勢の制服自衛官の中で小生も立派な自衛隊医官として戦車や無反動自走車などの大型車両を目の前にして興奮したのを覚えています。また2年目の秋にはテキサスへの出張を命ぜられました。これは毎年陸上及び航空自衛隊の迎撃ミサイル部隊の実射訓練がアメリカ合衆国ニューメキシコ州マクレガー射爆場で行われその衛生支援として付いていく任務でした。テキサス州エルパソのフォートブリスに滞在し週5日車で30分ほど離れたマクレガーレンジに出勤します。米軍の駐屯地内での生活は退屈なものでしたが、小生大のアメリカ好きなのでお昼のホットドック、ハンバーガーに至福の喜びを感じ満喫もしていました。テキサス出張中心に残る経験は米陸軍の軍楽隊のコンサートをエルパソで聴きに行った時でした。国家斉唱やビューティフルアメリカの演奏の際、近くの席に座っていた退役米軍人の老人が涙を流して『お前たちはどこから来た?日本か、そうかそうか。』と声をかけてアメリカの偉大さと彼らの愛国心を誇示していたのを思い出します。これが戦争に負けた原因かなと。アメリカ人の寛大さと傲慢さを感じその当時の自衛隊の置かれた矛盾を痛感しました。日本の自衛隊は外国では一応に軍隊と認められるが国内ではまま子扱いされている現実です。その当時も現在イラクに派遣されている自衛官も日本の軍人として国のために任務についているという気持ちは変わりないと思います。約一ヶ月の出張でしたが自分が医者であり自衛官である自覚ができた期間でした。ただ帰国した成田空港で最初に聞いたことはショックでした。友人に迎えに来てもらい、『おい長島が辞めたよ』そう長島が巨人軍の監督を辞任した、㍼55年10月21日の成田でした。その後半年小生の中病での研修は日々感動し、自分の未熟さを反省しながら過ぎて行きました。今回は小生の研修医時代でお話が原稿許容量越え。次号へ続く。