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航空自衛隊医官よもやま話(3) | IMCニュース

航空自衛隊医官よもやま話(3)

 前回小生の研修医時代の話で終わりましたが、今回は研修医を終了し一人前の医師、自衛官としての始まりです。昭和56年3月晴れて沖縄の航空自衛隊那覇地区病院(現自衛隊那覇病院)勤務を命ぜられ赴任しました。家内、二人の娘を伴った大移動でした。3月とはいえ沖縄は内地に比べれば暖かく、空は青く、海も青く(ありきたりの表現)小生たち4人の前途を歓迎してくれるようでした。赴任してまず荷物が到着するまでは部隊で紹介してくれたホテルへチェックイン。ところが部屋は暗く、ジメジメし、かび臭く、小さな小動物がキュンキュン鳴いて我々をより一層暗くしてくれる初日でした。あとで知りましたがこの小動物はヤモリというものでした。正直小生も家族も初めてのご対面で『なんて所に来てしまったのだ』と。しかしこれからはここで暮らさなければならず諦めるしかない。家内、子供たちは初日から『鎌倉に帰りたい』一家の主たる小生を責めます。まあ自分たちの官舎に入れば大丈夫と家族を励まし、その晩は家族4人で寄り添って眠ったのを思い出します。翌日小生は部隊(病院)へ初出勤。恒例となりました部隊長(院長)への申告を済ませ晴れて那覇病院の一員となり凛々しい制服姿で第一日目を開始。院長は中央病院時代の第一内科部長のK先生でありました。(後日自衛隊中央病院長を勤められた方)また直属の上司は内科科長のM先生で、この方が『よもやま話(1)』で小生の自衛隊入隊を紹介してくれた先生でこれからの自衛隊生活で常時小生の上官としてお仕えした?先生でした。M先生の出身は鎌倉、お父上が小生の父の先輩で何かと面倒を見ていただき、ご迷惑もおかけしました。 初めての部隊勤務として非常に恵まれた環境でした。小生の仕事場はそんな具合でしたが、ちょっと家族の話に戻ります。荷物は赴任して確か2日後に到着する予定で、官舎に入居する当日小生一家は部隊で用意してくれた特借官舎でガラス屋さんの2階の変則2LDKの部屋へと案内されました。広くはありませんが家族4人には十分でした。沖縄らしく各部屋にはエアーコンディショナーが常備されていました。(沖縄でクーラーなしは地獄)この時自衛隊の組織の素晴しい慣例を経験しました。それは部隊(病院)の人達が引っ越しの手伝いをしてくれることです。それも十数人の人が一気に荷物を部屋に運んでくれます。あっという間に荷物が紐どかれてしまいます。見ていて(小生たちは呆然と見とれていました)圧巻でした。何しろ自衛隊は国民からまま子扱いされていた時代ですから、また沖縄という特殊な風土の土地柄か、自衛隊員の互助精神は中々のものです。その後小生達の生活環境も整備され街への外出もできるようになりましたが、この後内地と沖縄の文化、生活の違いが小生たちを楽しませ、驚かす第一歩でした。赴任してすぐ家族たちはハブの恐怖を吹き込まれ買い物に出ても様々な慣習や言葉の違いに戸惑い、毎日『帰りたい』の連続でした。週末になると家族たちへのサービスと思い沖縄の海、観光地へと連れ出し気を紛らわせました。やはり子供たちは東南植物楽園の熱帯の花、海洋博公園水族館の日本一の水槽で泳ぐ魚たちに感動し楽しむようになりました。残念ながら妻は慣れない生活と知人の居ない中で中々馴染めなかった様でしたが、自動車の免許を取りたいと言うので早速教習所に行かせることにしました。上の娘は小学2年で4月の新学期から近くの高良小学校に転入し毎日学校へ行っており下の子を教習所の託児所に預けて日々運転免許に邁進していました。ところが託児所に預けた下の子が次から次へと麻疹、水疱瘡と罹り最後にはブドウ球菌による皮膚粘膜症候群まで罹ってしまい約一ヶ月半教習所を中断しなくてはならず、またぞろ『こんな所へ来たのが悪い』『貴方の転勤がいけない、私たちだけ帰る』。しかし下の子も子供の病気を一遍にして強くなり、家内も教習所に復帰し時間を余らせて卒業、運転免許を取得。その為か彼女の行動範囲が広がり沖縄生活も受け入れられるレベルへ。 那覇病院は昭和53年に新設された当時最も新しい病院でした。小生の最初の仕事は内視鏡ができる医者として内視鏡室の開設でした。初めて一人で検査をする不安はありましたが、スタッフへ内視鏡検査の介助の仕方、機器の洗浄などの取り扱いなど教育をし、診療開始と心配している間もなく第一例目の患者さまがベッドの上で口を開けて待っていました。どのような患者さまだったかは忘れましたが無事終了したと思います(焦った記憶もないし)。病院生活は順調に経過し、自衛隊に入り初めての射撃訓練を受けることになりました。小生が訓練の指揮官として行く事になりいざ出発の際、整列して『指揮官に敬礼』、居並ぶ諸君からクスクスと笑いが、普段自衛官らしくない小生の指揮官ぶりに。旧軍なら大変ですが現代の軍隊ではそんなもんかな。小生もある日の朝礼で病院の駐車場に全隊員が整列し診療部の指揮官であるM先生が国旗のある方角へ『左向け左』と号令を掛け並んだ診療部の諸君は左に向きました。小生一人『先生右ですよ』と、後でM先生が『分かった、お前は俺の命令に従わないんだ』と笑いながら注意を受けました。上官の命令は間違っていても従う。これが軍隊。軍隊経験は沖縄で様々な洗礼を受け理解を深めていきました。体験搭乗や巡回診療(離島の)でF104,P33,P2J,B65,C1,V107など沖縄にある陸海空の飛行機、ヘリコプターに乗せて貰いました。記号で書いてもどんな飛行機か分からないでしょうがジェット戦闘機から観光用?のビーチクラフトまで。その中で衝撃的だったのはやはり戦闘機です。旅客機がセダンなら戦闘機は高性能のスポーツカーです。加速が違います。マッハ1.4、5Gを体験しました。真っ青な空の中の素晴しいの一言です。もう一つは所謂災害派遣で海上の船から急病人を那覇救難隊のV107に搭乗してピックアップに行った時でした。うねりで揺れる船にメディックがロープで降り、見事に着地、患者をラックに乗せ吊り上げます。メディックの勇気は大したもの、患者は無事に収容されました。上空でホバリングしたヘリコプターは意外とスリリングなものでした。沖縄勤務は他にも色々な経験、感動がありました。ひとつひとつが小生の思い出として、家内や子供たちの経験、思い出となりました。違う文化の中での生活は新鮮ですがストレスもありました。子供たちは沖縄で経験した小アメリカの生活が忘れられないのか今では海外生活好きになり上の子はアメリカで生活し、下の子も英語を流暢に話しアメリカを満喫しています。最後に小生たちの沖縄生活を楽しく支えてくれた米軍軍属の故ジョージ浜坂氏と奥様に心からの感謝を、紙面を借り申し上げたいと思います。彼らが子供たちに夢を与えてくれたと。今回も沖縄勤務で一杯になりました。次号へ